これは、有名な話ですのでご存知の方も多いかもですが、交響曲という種類の音楽を作った作曲家は数多くいます。
そもそもこの分野を確立したのは「交響曲の父」と呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン。"一応"ベートーベンの師匠にあたる人です。ハイドンは生涯に番号がつけられているものだけでも104曲という多くの交響曲を作曲しました。同時期のモーツァルトも41番までの交響曲を作曲しています。
さて、世代的にはこのあとになるベートーベンは9曲。第九は彼の最後の交響曲でもあるのです。
問題はここからです。ベートーベン以降も交響曲を作った作曲家は数え切れないほどいます。有名なところでは、シューベルト(諸説あるが8曲が一般的)、ブラームス(4曲)、メンデルスゾーン(5曲)、シューマン(4曲)チャイコフスキー(7曲)ドボルザーク(9曲)ブルックナー(9曲)・・・いろいろ調べてみるのですが、ベートーベン以降なぜか9番を越える交響曲を作曲した作曲家はほとんどいません。
このことから、「交響曲第9番を作曲したら死が訪れる。」といううわさがまことしやかに広まるのです。
これを真に受けてしまったのがグスタヴ・マーラーという作曲家、19世紀末から20世紀初頭にウィーンで活躍した交響曲の大作曲家です。マーラーは、第8番の交響曲まで作曲したあと、第九のジンクスを恐れて、次に作った交響曲には番号をつけず「大地の歌」という題名にしました。
無事「大地の歌」を作り終え次の作品に取りかかります。果たせるかな彼は10曲めの交響曲を完成させました。
この点では、マーラーの作戦は功を奏したとも見えます。ジンクスは破られたかに見えましたが、これに安心したのか、大地の歌に番号をつけなかったため、マーラーは10曲目の交響曲を「第9番」として発表します。そして、次の作品に取り掛かかるのですが・・・
第10番となるべき交響曲の第1楽章を作曲している途中、マーラーは亡くなってしまいました。
こうなると、交響曲第9番を作曲したら死ぬというジンクスは、真実性をおびたものになってしまいます。
第九のジンクスを恐れ、回避しようとして結局第9番の交響曲を発表すると死んでしまったマーラー。出来すぎた話のようですが、史実です。
奇しくもマーラーは交響曲作曲家としてベートーベンの音楽を崇拝していました。ベートーベンの第九以降、交響曲に独唱や合唱が取り入れられた例はわずかですが、マーラーは自分の交響曲の中で独唱や合唱を数多く取り入れました。ほぼ間違いなく第九に影響されたのだろうと考えられます。
マーラーもまた、ベートーベンと同じ9番までの交響曲を残してこの世を去るという運命になったというのも、ミステリアスな話ですね。
マーラー以後も9番の交響曲を乗り越えた作曲家はしばらく現れなかったようですが、20世紀に活躍したロシアの作曲家ドミトリ・ショスタコーヴィチは15番までの交響曲を作曲しました。彼もまた第九のジンクスを意識していた節があります。
ショスタコーヴィッチの第9交響曲には、当時のスターリン政府は第二次世界大戦の勝利を祝う交響曲として、大編成オーケストラ、合唱付のベートーベンの第九のごとき音楽をと希望していました。ショスタコービッチもそれを期待させる声明文を発表していました。
ところが、出来上がって発表されたのは、合唱は無し、オーケストラの規模も小さく30分にも満たない軽妙洒脱(或いは諧謔と批判に満ちた曲という人もあります)な曲で、第九の壮大さとはかけ離れた曲だったのです。
ベートーベンの第九のような壮大な曲を作曲するはずが、一転して変わった背景には、壮大な第九を作曲すればそれが自分の墓標になると考えたからともいわれています。
ショスタコーヴィチのこの第九はソビエト共産党の批判にさらされることになりました。ただ、神様も偉大な交響曲作曲家の墓標としてはあまりにもふさわしくないと考えたのか、この後、オラトリオ「森の歌」などの発表で名誉を回復したショスタコーヴィッチは、結局交響曲第15番まで作曲することになります。
もし、名誉の回復がなければ・・・ショスタコーヴィチは第九を残して刑場の露に消えていたかもしれません。
(※ベートーベン以後ショスタコーヴィチまでの間に、第9番以上の交響曲を作った作曲家は皆無ではありません。実は、マーラーの前にも11番までの交響曲を作った作曲家があるようですが、いずれもあまり知られていない作曲家で、交響曲自体も有名ではありません。マーラーがこの存在を知っていたら、第9のジンクスにおびえることはなかったのかもしれませんね。)