夜久野第九WEB記念館
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夜久野ふれあいプラザ
夜久野地域公民館(夜久野ふれあいプラザ)のご案内
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福知山市夜久野町額田19-2
電話:0773-37-1188
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ベートーベン自筆譜
 交響曲第9番の、ベートーベン自身による自筆譜(オリジナルスコア)はベルリン国立図書館が収蔵しており、ユネスコ世界遺産に指定されています。全ページ、インターネットで簡単に閲覧できますので、興味のある方はご覧ください。

▼ベートーベン交響曲第9番オリジナルスコア(自筆譜)
第九のオリジナルスコア

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第九作曲時の時代背景〜その頃日本は
 ベートーベンは1792年にシラーの詩「歓喜に寄す」に出会いました。1792年はフランス革命真っ只中。翌1793年にフランス国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットが処刑されました。日本では江戸時代中期、寛政年間で浮世絵の東洲斎写楽が活躍するのがこの2、3年後になります。
 実際に作曲を開始したのは1815年、この年ナポレオンがワーテルローの戦いに敗北、これによりナポレオンは完全に没落し、第二次パリ条約が結ばれます。前年の1814年に開催された、ウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず。」の言葉が残されています。ミュージカル映画「会議は踊る」はこれを描いたもの。日本では、江戸時代中期から後期というところ。
 第九の完成は1824年。作曲を開始してから10年かかっています。日本では、幕末の足音が聞こえてくる頃、幕末に名をはせた人物が誕生した頃です。江戸幕府のときの将軍は第11代家斉。ウィーンで第九の初演が行われた約30年後、日本に黒船がやってきます。このとき初めて日本に軍楽隊が上陸しました。日本に本格的な洋楽の歴史が始まります。それからさらに約10年を経て、日本に初の軍楽隊「サツマバンド」が島津久光の命により横浜に誕生します。日本の吹奏楽の始まりとされています。
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第九の長〜い曲名
 日本では、主に交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」という風に呼ばれています。「合唱」とか、「合唱付き」というのがタイトルのようですが、ベートーベンが名付けたわけではありません。CDのジャケットなどに併記されている英語の表記に「Choral(合唱)」とあるのは、恐らく日本向けで、欧米では、Sinfonie Nr.9 D-moll Op.125(ドイツ語)、Symphoney No.9 D-minor Op.125(英語)と表記されているのみで、日本で言う「合唱付き」などとはあまり呼ばれていません。  そもそも、この曲のドイツ語の原題は

Sinfonie mit Schluß-Chor über Schillers Ode “ An die Freude ” für großes Orchester, 4 Solo- und 4 Chor-stimmen componirt und seiner Majest ät dem König von Preussen Friedrich Wilhelm III in tiefster Ehrfrucht Zugeeignet von Ludwig van Beethoven, 125 tes Werk

という長いタイトルが付けられていました。これを訳すと、「シラーの頌歌「歓喜に寄す」による終結合唱を持つ、大管弦楽、四声の独唱と四声の合唱のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世陛下に最も深い尊敬の念を持って、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにより、献呈された交響曲、作品125」となります。これが第九の本来の名称です。今は、このようなタイトルで表記されることはありませんが、日本で「合唱付き」と呼ばれるのは、単に合唱が付いてるから「合唱付き」と呼ぶのだとすれば、ほかにも合唱付きの交響曲はたくさんあります。ひょっとすると、原題の「歓喜に寄す」による終結合唱を持つと言う部分からきているのかもしれません。
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第九のお値段
 第九の値段・・・といっても、楽譜の値段のお話です。今回の合唱で使用するショパン社の「歓喜の歌ゴールド版」は1冊840円です。ではオーケストラが使う楽譜はというと・・・まずパート譜。これはオーケストラの各奏者が使う楽譜で、パート(楽器)によって若干の値段の差はありますが大体1冊1,000円程度、オーケストラの大きさにもよりますが、大きいオーケストラだと一式で60,000円ぐらいになります。  指揮者が使う楽譜をフルスコアといいます。これが1冊14,000円ぐらいです。ほかに、ミニチュアスコアとかポケットスコア、スタディスコアなどと呼ばれる、小さいサイズのオーケストラスコアがあります。フルスコアを縮小してA5サイズ程度にしたものです。これはいろいろありますが安いもので1,300円ぐらいから高いもので2,700円程度。一般的に購入できる第九の楽譜はこの程度の価格です。 第九のフルスコア
▲フルスコア
 ところで、2003年、ロンドンの有名なオークションハウス「サザビーズ」に第九の初版用筆写スコアが出品されました。この楽譜はベートーベンの自筆譜(前出のユネスコ世界遺産になっている楽譜)を筆写したもので、第九初演の際に使われた楽譜です。もちろん筆写をしたのはベートーベンではありませんが、初演に使われたため、ベートーベン自身による書き込みなどがあったり、修正があったりするようです。初版本印刷の底本になりました。出品したのは、初版本を出版したショット社、落札者は匿名の個人です。そして落札価格は190万ポンド(3億6500万円)でした。

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第九のメロディに隠された秘密!?
 第九のメロディといえば・・・ファ・ファ・ソ・ラ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・レ・ミ・ファ・ファーレレー。もっとも交響曲第9番はさまざまなメロディで作られていますの厳密に言えば少し乱暴な気もしますが、やはり代表的なメロディですからね。運命をジャ・ジャ・ジャ・ジャ〜ンというのと同じ。では、交響曲第6番「田園」は?第7番は?・・・といってもこれらの2曲ほど簡単にメロディは出てきません。いくつかのメロディーは知っていても、第九や運命のごとくトレードマークのようなメロディとなると・・・人によって感じ方も違うでしょうから。
 交響曲第5番「運命」の、ジャ・ジャ・ジャ・ジャーンは3つのソとひとつのミ♭それにひとつの休止符の組み合わせのみで出来ています。(譜例1)たったこれだけで子供から大人まで誰もが知っているジャ・ジャ・ジャ・ジャーンを生み出したベートーベンの天才ぶりがうかがえます。
交響曲第5番冒頭の楽譜

 さて、「歓喜のテーマ」と呼ばれる第九のメロディですが、レ、ミ、ファ、ソ、ラのわずか5つの音でできています。 その上、ほとんどは隣り合う音、たとえば冒頭、ファ→ファ→ソ→ラ→・・・という具合に隣の音、隣の音へ1音づつ変わります。最後のほうには跳躍といって離れた音へ飛ぶ部分もありますが、ほとんどは隣同士。(譜例2)
歓喜のテーマ
要するに順番に階段のように音が変わるだけなので、非常に歌いやすいのです。音程が大きく変わる部分の多い歌は、音程をとるのは難しいですけれども。ドレミファソラシドと順番に歌うは比較的簡単です。

 ところでこのメロディ、原曲はニ長調ですが、これをハ長調に変更してみます。(譜例3)これを移調といいますが、ニ長調の場合ファから始まるこのメロディをハ長調に置き換えるとミから始まります。すると・・・ミ・ミ・ファ・ソ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・ド・レ・ミ・ミーレレー・・・となります。
ドレミファソラシの7つの音のうち使っている音はドからソまでの5つの音だけ。シとラは使っていない・・・
歓喜のテーマ(ハ長調)

 この曲はドイツの詩人フリードリッヒ・フォン・シラーの「歓喜に寄す(原題:An Die Freude)」という詩にベートーベンが曲をつけたものです。・・・もし、ベートーベンがユーモアで、歌詞はシラーが作ったから、メロディはシラ(ー)を抜いて、ドからソまでの音だけで作曲したのだとしたら・・・これは、単なる偶然なのでしょうか?それとも・・・?
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ベートーベンフリーズ−絵画で表現された第九−
ベートーベンが活躍し、第九の初演が行われたウィーンに「ゼツェッシオン(ウィーン分離派館)」という美術館があります。19世紀末に活躍したウィーン分離派の拠点であるこの美術館の一室の壁3面に渡って描かれた壁画があります。高さ2.5メートル、全長34メートルという巨大な作品で、作者はウィーン分離派の最も代表的な画家グスタフ・クリムト。タイトルは「ベートーベンフリーズ」、クリムトの最高傑作とされています。1902年に開催された第14回分離派展は、楽聖ベートーヴェンを称え称賛するために企画され開催された展示会で、クリムトは交響曲第9番を絵画化した大壁画『ベートーヴェン・フリーズ』として楽聖に対し敬意を表しました。
ベートーベンフリーズ第1面 第1面は女性が長い列をなして雲のように流れている。壁面中心あたりに「幸福への憧憬」。「人類の苦悩」を象徴する裸の三人の男女と、彼らの願いを受けて幸福をかけて戦うために金色の甲冑を身にまとい、剣を手にした騎士、その騎士に祝福を与える二人の精霊が描かれています。

正面にあたる第2面は「敵対する力」。ゴリラのような怪物を中心に、左に彼の娘たち、さらに擬人化された「情欲」「不貞」「不摂生」、さらに巨大な蛇を背景に苦悩に身をゆがませる女性が描かれている。その上方を「人類のあこがれ」が飛び去っていく。 ベートーベンフリーズ第2面

そして第3面が「詩に慰めを見出す憧れ(詩)・歓喜(天使たちの歓喜のコーラス)・接吻」。この第3面こそ、交響曲第九番第4楽章の合唱をテーマに描かれた作品です。
ベートーベンフリーズ第3面_1 ベートーベンフリーズ第3面_2
交響曲第9番に用いられたドイツ古典派を代表する詩人フリードリヒ・フォン・シラーによる詩「歓喜に寄す」を女性たちが高らかに謳い上げる姿が描かれており、画面右部分には「歓喜に寄す」の一句「抱き合おう、諸人よ!喜びよ!神々の炎よ!この接吻を全世界に!」の場面として、抱擁し接吻する男女の姿が配されています。

※各画像をクリックすると、拡大して表示します。
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道の駅「第九の里」
映画「バルトの楽園」をご存知でしょうか?第1次世界大戦中、徳島県の板東にあった俘虜収容所のドイツ人俘虜と板東の人たちとのふれあいを描いた映画です。俘虜収容所といっても、そこでの生活は当時の収容所長の考えにより、大変文化的なもので、俘虜たちによるオーケストラも存在していました。板東の人たちは、この俘虜たちからドイツの技術や、知識を学んだといわれています。この映画の最後のシーンにドイツ人の俘虜たちによる「第九」が演奏されます。これは、史実で日本で最初の第九といわれています。もっともドイツ兵の俘虜による演奏ですので、女性は居ませんから、混声合唱を男声合唱に書き換えて演奏されたそうです。
その収容所の跡地が鳴門市ドイツ村公園として整備されています。その中に道の駅「第九の里」があります。
道の駅「第九の里」全景場所は徳島県鳴門市。高松自動車道板野インターから車で約8分のところにあります。鳴門市の物産などを販売する物産館は、板東俘虜収容所の建物を移築して利用しています。
▲道の駅「第九の里」
「第九の里」に隣接する「鳴門市ドイツ館」です。
この中には、板東俘虜収容所で行われた日本初の第九の演奏の様子が、等身大の動く人形によって紹介されています。

ドイツ館前の広場にはベートーベン像もあります。
鳴門市ドイツ館
▲鳴門市ドイツ館
俘虜収容所の第九ベートーベン像
▲第九初演の模様を伝える人形たち▲ベートーベン像
少し遠いですし、道の駅ですのでここを目的に出かけるほどではありませんが、お近くに行かれたときに、少し寄り道をしてはいかがでしょうか?
夜久野町からのアクセスは、舞鶴若狭自動車道(又は、和田山から豊岡自動車道−舞鶴若狭自動車道)から明石海峡大橋へ、神戸淡路鳴門自動車道で淡路島を縦断し高松自動車道板野ICへ。夜久野町からは片道約210Km、およそ3時間半から4時間かかると思います。

  • 道の駅「第九の里」ホームページ
  • 鳴門市ドイツ館ホームページ
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    第九のメロディーが出来るまで
    第九が作曲されたのは1824年のことですが、あまりにも有名な第九のメロディーは、実はそれまでにベートーベンが作曲をした曲のメロディーを引用して作られたと言う説があります。諸説あるようですが、かなり有力視されている説をご紹介しましょう。 第九が作曲される29年前の1795年にベートーベンは「愛されない者の溜め息と愛の答え(原題:Seufzer eines Ungeliebten und Gegenliebe)」と言う歌曲を作曲します。この中に第九のメロディの原型とも言えるメロディーが出てきます。(譜例1)第九のメロディーとは明らかに違いますが、どことなく似ているとは思いませんか
    愛されない者の溜め息と愛の答えのメロディー
    (クリックすると演奏が始まります。)

    さて、その13年後、1805年、これは比較的有名な曲なのですが、ベートーベンは合唱幻想曲を作曲します。この曲が第九の発想の元になったと言う説はかなり有力です。この曲は譜例1の「愛されない−」とメロディーはまったく同じ。ただし、こちらの方は合唱になっています。(譜例2) 正式な曲名はピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲作品80といいます。約20分ほどの曲ですが、ピアノが使われていることを除けば、管弦楽と混声四部合唱と言う編成、さらにはこのメロディなど第九のヒントになったと言う説もまんざらではありません。 合唱幻想曲のメロディー
    (クリックすると演奏が始まります。)

    そして、さらにそこから5年後、1810年。第九が創られる15年前に作った歌曲「絵のかかれたリボンで(原題:Mit einem gemalten Band)」のメロディはさらに第九に近づきます。(譜例3) 最小の3小節ほどは、まったく第九と同じで、これは第九のメロディーの誕生に確実に関連していると思われます。 合唱幻想曲のメロディー
    (クリックすると演奏が始まります。)

    ベートーベンがシラーの「歓喜に寄す」に出会った3年後に最初のメロディーが、本格的に作曲を始める1815年までには、今の第九にほとんど近いメロディーが完成していたと言うことになります。
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    第九のジンクス
     これは、有名な話ですのでご存知の方も多いかもですが、交響曲という種類の音楽を作った作曲家は数多くいます。
     そもそもこの分野を確立したのは「交響曲の父」と呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン。"一応"ベートーベンの師匠にあたる人です。ハイドンは生涯に番号がつけられているものだけでも104曲という多くの交響曲を作曲しました。同時期のモーツァルトも41番までの交響曲を作曲しています。
     さて、世代的にはこのあとになるベートーベンは9曲。第九は彼の最後の交響曲でもあるのです。

     問題はここからです。ベートーベン以降も交響曲を作った作曲家は数え切れないほどいます。有名なところでは、シューベルト(諸説あるが8曲が一般的)、ブラームス(4曲)、メンデルスゾーン(5曲)、シューマン(4曲)チャイコフスキー(7曲)ドボルザーク(9曲)ブルックナー(9曲)・・・いろいろ調べてみるのですが、ベートーベン以降なぜか9番を越える交響曲を作曲した作曲家はほとんどいません。
     このことから、「交響曲第9番を作曲したら死が訪れる。」といううわさがまことしやかに広まるのです。
     これを真に受けてしまったのがグスタヴ・マーラーという作曲家、19世紀末から20世紀初頭にウィーンで活躍した交響曲の大作曲家です。マーラーは、第8番の交響曲まで作曲したあと、第九のジンクスを恐れて、次に作った交響曲には番号をつけず「大地の歌」という題名にしました。
     無事「大地の歌」を作り終え次の作品に取りかかります。果たせるかな彼は10曲めの交響曲を完成させました。
     この点では、マーラーの作戦は功を奏したとも見えます。ジンクスは破られたかに見えましたが、これに安心したのか、大地の歌に番号をつけなかったため、マーラーは10曲目の交響曲を「第9番」として発表します。そして、次の作品に取り掛かかるのですが・・・

     第10番となるべき交響曲の第1楽章を作曲している途中、マーラーは亡くなってしまいました。
     こうなると、交響曲第9番を作曲したら死ぬというジンクスは、真実性をおびたものになってしまいます。
     第九のジンクスを恐れ、回避しようとして結局第9番の交響曲を発表すると死んでしまったマーラー。出来すぎた話のようですが、史実です。

     奇しくもマーラーは交響曲作曲家としてベートーベンの音楽を崇拝していました。ベートーベンの第九以降、交響曲に独唱や合唱が取り入れられた例はわずかですが、マーラーは自分の交響曲の中で独唱や合唱を数多く取り入れました。ほぼ間違いなく第九に影響されたのだろうと考えられます。

     マーラーもまた、ベートーベンと同じ9番までの交響曲を残してこの世を去るという運命になったというのも、ミステリアスな話ですね。

     マーラー以後も9番の交響曲を乗り越えた作曲家はしばらく現れなかったようですが、20世紀に活躍したロシアの作曲家ドミトリ・ショスタコーヴィチは15番までの交響曲を作曲しました。彼もまた第九のジンクスを意識していた節があります。

     ショスタコーヴィッチの第9交響曲には、当時のスターリン政府は第二次世界大戦の勝利を祝う交響曲として、大編成オーケストラ、合唱付のベートーベンの第九のごとき音楽をと希望していました。ショスタコービッチもそれを期待させる声明文を発表していました。
    ところが、出来上がって発表されたのは、合唱は無し、オーケストラの規模も小さく30分にも満たない軽妙洒脱(或いは諧謔と批判に満ちた曲という人もあります)な曲で、第九の壮大さとはかけ離れた曲だったのです。
     ベートーベンの第九のような壮大な曲を作曲するはずが、一転して変わった背景には、壮大な第九を作曲すればそれが自分の墓標になると考えたからともいわれています。
     ショスタコーヴィチのこの第九はソビエト共産党の批判にさらされることになりました。ただ、神様も偉大な交響曲作曲家の墓標としてはあまりにもふさわしくないと考えたのか、この後、オラトリオ「森の歌」などの発表で名誉を回復したショスタコーヴィッチは、結局交響曲第15番まで作曲することになります。
     もし、名誉の回復がなければ・・・ショスタコーヴィチは第九を残して刑場の露に消えていたかもしれません。

    (※ベートーベン以後ショスタコーヴィチまでの間に、第9番以上の交響曲を作った作曲家は皆無ではありません。実は、マーラーの前にも11番までの交響曲を作った作曲家があるようですが、いずれもあまり知られていない作曲家で、交響曲自体も有名ではありません。マーラーがこの存在を知っていたら、第9のジンクスにおびえることはなかったのかもしれませんね。)
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    ベートーベンだけじゃない「歓喜に寄す」
     ベートーベンが第九のテキストに用いた「歓喜に寄す(An die Freude)」は、フランス革命直後、シラーの詩「自由賛歌」をラ・マルセイエーズ(現在のフランス国歌)のメロディーに載せて歌われていたものを、シラーが「歓喜に寄す」として再編したもので、発表するやいなや、当時の若者たちを中心に熱狂的に受け入れられました。
     ベートーベンがこの詩を歌にしたいと思ったように、同じことを思った作曲家がいたとしても不思議ではありません。事実、この詩を基にした歌は、第九のほかにもいくつか存在します。今ではそのほとんどの曲が知られていませんが、当時、有名な作曲家だったシュルツという人がこの詩に曲をつけたものがあります。タイトルは「Freude Schöner Götterfunken(歓喜、それは美しい神々の閃光)」といいます。歌いだしの歌詞がそのままです。

     ほかにも、いくつかあるようですが、意外にも非常に有名な作曲家がこの詩に曲をつけ、「An die Freude(歓喜に寄す)」というタイトルで曲を作っています。
     それは、ベートーベンと同時代に活躍した作曲家で、「野ばら」、「菩提樹」、「魔王」、或いは未完成交響曲などの作品を作ったフランツ・ペーターシューベルトです。
     シューベルトの「An Die Freude」は2拍子で第九と同じく、Freude Schöner Götterfunken・・・とはじまります。第九の「歓喜の歌」の部分と同じです。後半3拍子になりますが、ここにつけられた歌詞はSeit umschlungen Millionen・・・。これは第九の「口付けの主題」の部分。そういえば口付けの主題は3拍子ですね。(下記リンクから楽譜をご覧になれます。)

     シューベルトはベートーベンを尊敬していたといわれますから、尊敬する大ベートーベンの影響を受けた・・・とも考えられそうですが、そうではありません。

     なぜならば・・・

     シューベルトがこの曲を発表したのは彼が19歳の時。前述の「野ばら」や「菩提樹」などのすばらしい歌曲を作曲したのと同時期です。
    そして、ベートーベンが第九を発表するのはその9年後なのです。
     或いは、ベートーベンも第九を作曲しているときに、シューベルトの「An die Freude」をすでに聴いていたとも考えられます。もっともすでに偉大な作曲家としての地位を築いていたベートーベンから見れば、シューベルトの作品は子供の作品にしか見えなかったかもですね。
     ・・・ベートーベンがシューベルトの「An die Freude」に多少なりとも影響を受けたのかどうか・・・事実はわかりませんが、いろいろ想像してみるのも面白いですね。

    DOWNLOOD: シューベルトの「An die Freude」の楽譜(PDF:149KB)

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